Expose the lies.
嘘を暴く。
누가 왜 거짓말을 하나?
初の慰安婦の証人である金学順さんの証言記事。
<まとめ>
1924年に満州で生まれ、生後100日で父親が亡くなり貧しかったため、14歳の時に母親がキーセンに売った。
(数え歳なので実際は12歳か13歳の時に売られたことになる。)
その3年後、雇い主が初の就職先として連れて行ったのが日本軍の小部隊前だった。
雇い主は日本軍からお金を受け取れなかったようだ。
5ヶ月間、毎日4~5名の相手をした。
5ヶ月後、ジョという商人と逃げ出し、そのジョと結婚し、息子と娘一人ずつ、二人の子供が生まれた。
朝鮮戦争(1950-1953)が始まってすぐに子供たち二人共死んでしまい、夫も1953年に亡くなった。
それ以来、日雇いなどをして貧しく暮らしてきたと涙をつまらせた。
現在は月3万ウォンと10kgの米を生活保護で支給され暮らしている。
※ちなみに、朝鮮戦争ではあらゆるものが破壊され同族に虐殺され、朝鮮戦争後、朝鮮人は皆貧しく暮らした。
全文訳は下にあります。
1991年8月15日 ハンギョレ新聞
従軍慰安婦の惨状を知らしめる
国内居住者中 初 過去暴露 金学順さん(全文訳)
http://newslibrary.naver.com/viewer/index.nhn?articleId=1991081500289114013&editNo=4&printCount=1&publishDate=1991-08-15&officeId=00028&pageNo=14&printNo=1004&publishType=00010
従軍慰安婦の惨状を知らしめる
国内居住者中 初 過去暴露 金学順さん
いつかは明らかにしなければならない歴史的事実
未だに日章旗を見ると憤怒する
17歳の花のような歳の5ヶ月間余りの間、日本軍人たちの従軍慰安婦をした金学順(김학순67歳
・ソウル鍾路区チュンシン洞1・写真)婆さんが14日午後 韓国女性団体連合事務所に当時の現状を
暴露する記者会見を持った。日帝強占下、従軍慰安婦の生活を強要受けた韓国人中、解放以後国内で
生活しながら自身の惨憺(さんたん)とした過去を暴露した境遇は金学順さんが初めてだ。
『これまで言いたくても勇気が無くて口を開くことが出来ませんでした。いつかは明らかにしなければ
ならない「歴史的事実」なので打ち明けることにしました。かえってすっきりしています。
しわが深いおばあさんに変わった金さんは50年前の思い出したくない過去が胸を痛むかのように
目頭を濡らすと話し始めた。
『今でも「日章旗」を見ると悔しく、胸がむかむかします。テレビや新聞で近頃も日本が従軍慰安婦を
引っ張って行った事実はないという話を聞く時は胸が崩れます。日本を相手に裁判でもしたいくらいの
心情です。』
現在ひと月米10kgと3万ウォンの支給を受け生活保護対象者として生活を延命している金さんの
事情は数奇だ。
24年満州 吉林省で生まれた金さんは父親が生後100日で亡くなられた後、生活が苦しくなった
母親のために14歳の時、平壌妓生(キーセン)検番(置屋)に売られて行った。3年間の検番生活を終え
金さんが初就職と思って検番の養父について行ったところが北中国鉄壁の日本軍300余名がいる小部隊前だった。
『私を連れて行った養父も当時日本軍人たちにお金も貰えず無力に私をそのまま奪われたようでした。
その後5ヶ月間の生活は殆んど毎日4~5名の日本軍人達を相手にするのが全部でした。』
金さんがいた所は小部隊前に建てられた建物で、5名の10代韓国女性が一緒でした。米とおかずは
部隊で提供され24時間監視状態で過ごした。何度も脱出を試みた金さんは、その度に日本軍人たちに
見つかって叩かれたと打ち明けた。
当時我が国と中国を行き来し「銀銭」商売をしていた韓国人ジョ・ウォンチャン(조원찬31歳)さんが
ちょうど慰安所に来た時に頼んでようやく逃げ来ることに成功した。その後ジョさんと一緒に満州に行き
中国上海などの地を転々としながら住み、解放後ジョさんとソウルに来て定着した。息子と娘1名ずつ
産んで住んでいた6・25(朝鮮戦争)直後、息子と娘を失い、53年には夫もこの世を去り女中奉公、
日雇いなどをして貧しく生きてきたと喉をつまらせ言った。
金さんは最近就労事業に出て出会った原爆被害者イ・メンヒ(이맹희66歳)さんと韓国挺身隊問題対策協議会の
勧めで事実を明らかにする決心をしたという。
金さんは『政府が日本の従軍慰安婦問題に対して公式謝罪と賠償を要求しなければならない』と力を込めて言った。
韓国は現在も数え歳で年齢を言うので、14歳にマイナス1か2歳が実年齢。
韓国での数え歳:生まれた時点で1歳。年が明けると2歳。つまり12月31日に生まれたら、生まれた翌日に2歳となる。